今回のテーマはブラジルサントスと、横浜との関係についてですが、本題に入る前に、ポルトガル語にご興味がある方は、是非下👇の動画(57秒)をご覧ください。
さて、本題に入ります!
先日、横浜市とブラジルサントス市の交流事業のお手伝いに行ってきました。私の出身地であるサントスは、今から115年前に日本からの最初の移民が笠戸丸に乗って上陸した地です。最初の移民は、神戸港から出発されていますが、その後横浜港からも多くの日本人が、夢と希望を胸に、ブラジルへ渡っています。
サントスは南米大陸で最大級の港を持つ都市ですので、国際的な港を持つ横浜との共通点も多く、またサントス日本人会を始め、多くの日系人の方々が、今も日本の伝統を守り、そして日本とブラジルの懸け橋となるべく活躍されているので、更に交流が深まることは、両市にとっても多いにプラスになると感じています。
因みに、私も雑誌(ブラジル特報)とブラジル中央協会ホームページでサントスの紹介をしていますので、よかったら次の記事も読んでくださいね。
さて、今回はサントス市議会に所属するインディアさんが来日され、来日できなかったサントス市の方々をオンラインでつなぎながら、サントス市から横浜市に対する親書が手渡されました。私は、その親書の翻訳と、その場の通訳を担当させていただきました。
その後インディアさんは、JICAの海外移民資料館を訪問され、移民の歴史や、日本と移民先の国々との関係について、熱心に耳を傾けていました。
インディアさんとの2ショット
このJICAの海外移民資料館は、日本人の海外移住の歴史や移住者と日系人の現在を知ることができる場所で、私も仕事やプライベートで何度か訪問したことがありますが、訪れると、今は亡き両親のことをいつも思い出します。
私の両親は1956年、日本が戦後の混乱期からようやく立ち直り始めたころ、でもまだまだ日本が貧しかった頃に、日本を出国しました。最初に向かったのは、実はブラジルではなくボリビア。そこで思い描いていた姿とは全く異なる現実に直面し、大変な苦労をした後、ボリビアからブラジルへ移り住みだのですが、ここでも容易ならざる日々を送ったと聞いています。
両親は、最終的にサントス市に居を構え、そこで私を生むことになるのですが、海外移民資料館を見て回ると、父も母も約50日間の船旅の末、未知の南米大陸に移り住み苦労したこと。船旅の途中には、母が大変な船酔いで、苦しんだ話など、両親から聞かされてきた苦労話を、昨日のことのように思い起こします😢。
今回、インディアさんに同行し、改めて海外移民資料館で移民の歴史を振り返った後は、資源循環局鶴見工場を訪問し、日本のごみ処理方法について、私も一緒に学ばせていただきました。インディアさんも大変興味深く聞かれていました。
日本のインフラや技術、人々の習慣、それを定着させるための市のルールなど、文化交流だけでなく、市民の生活をより良くしていくための交流にも大きな可能性があると、私も今回のプロジェクトをお手伝いする中で強く感じました。
私の故郷サントスと横浜がさらに交流を深め、いつかパートナー都市、そして姉妹都市になる日が来るよう、私も応援していきたいと思います!
なお、サントスと横浜との交流に関する関連記事は次のURLからもご確認いただけます。記事にもあるとおり、2015年から姉妹都市を視野に入れた交流が行われております。
次の動画も👇、是非一度ご視聴ください。
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