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「対話福島」に参加して(その1)| H&Aポルトガル語教室

atsukohoshi

更新日:2024年12月15日

Oi gente! Tudo bem?



 

 先日、「対話福島」というイベントに参加するため「東日本大震災・原子力災害伝承館」に行ってきました。ブラジルサンパウロ州サントス出身の私ですが、実は私の両親が福島県出身で、私も福島の大学に留学していたので、福島には特別な思いがあります!!


伝承館
東日本大震災・原子力災害 伝承館

 イベントでは東京大学の開沼博先生と映画監督の今泉力哉さんの対談も聞くことができました。

イベントのテーマは「記す」です。


 映画監督の今泉さんは、映画というメディアによって、物語を「記されて」いるわけですが、一言で映画といっても、いろいろな「記し方」があるんだな~と新たな視点を頂きました。

 今泉監督は、映画を観終えた人が、映画の主人公と自分とのギャップに苦しむような「主人公が成長する物語」は描かず、日常の中で人々が悩み、苦しみ、それがあたかも自分達の日常と重なり、自分事のように思える映画を描いている、といったお話をされていました。


「なるほど~」。今回の「記す」というテーマにピッタリと思いましたが、なぜ「なるほど~」なのかは、次回のブログに譲るとして、今回はこのイベントとは別に、開沼先生に特別に案内していただいた双葉町、大熊町など、福島第一原子力発電所に隣接する町の今、そして伝承館での展示を見て思ったことを「記し」たいと思います。


👇「対話福島」の様子は、以下をクリックすればご確認いただけます。👇



 東日本大震災が発生したのは、2011年3月11日。今から13年前です。当時私は、都内で仕事をしていましたが、大きな揺れに見舞われ、小学校、保育園に通う子供たちが心配になり、急ぎ職場を離れて、まずは保育園に向かったことを覚えています。ブラジルは地震がない国なので、日本に来て、初めて地震を体験したときは、本当に驚きましたが、この時も、ビルが揺れ、余震が続き、地震警報が次々の鳴り響き、大変不安な思いで過ごしておりましたが、双葉町の状況は、私の想像を絶するものだったことを改めて認識しました。


 当時も、双葉町の様子はニュースで放送されていたはずですので、認識はしていたと思いますが、時間とともに記憶もあいまいになり、自分事として考えることはなくなっていました。私の脳みそに「記された」情報は、いつの間にか、日常に埋もれて言っていた感じです。

 原子力災害をめぐる当時の状況は、次のようなものでした(双葉町ホームページ抜粋


平成23年3⽉11⽇

 14時46分

  •  三陸沖を震源とする東⽇本⼤震災が発⽣。

  •  双葉町の震度は6強。全壊103棟、半壊14棟、⼀部破損1棟。

  •  (避難指⽰区域設定の影響で詳細調査不能。※平成30年3⽉末現在)

 15時30分頃

  •  ⼤津波が双葉町に押し寄せ、約3km2(町全域の約5.8%)が浸⽔。

  •  津波による死者20名。(※平成30年3⽉末現在)

 16時27分 震災後初の災害対策本部会議を⾏う。

 19時03分 菅直⼈⾸相が原⼦⼒緊急事態宣⾔を発令。

 20時50分頃 福島県が福島第⼀原発から半径2km圏内の避難を発令。

 21時23分 菅⾸相が福島第⼀原発から半径3km圏内の避難及び3〜10km圏内の屋内退避を指⽰。


平成23年3⽉12⽇

 5時44分 菅⾸相が福島第⼀原発から半径10km圏内の住⺠に避難を指⽰。

 7時30分 町災害対策本部で全町避難等を決定、7時40分に避難広報を⾏う。

 8時00分 町防災無線で川俣町への避難広報を⾏い、約2,200⼈の町⺠が川俣町へ避難する。

 14時00分頃 双葉町役場を閉鎖する。その後、川俣町合宿所に災害対策本部を設置。

 15時36分 福島第⼀原発1号機の原⼦炉建屋が爆発。

 18時25分 菅⾸相が福島第⼀原発から半径20km圏内の住⺠に避難指⽰。


平成23年3⽉13⽇

 川俣町の避難所の⼀部町⺠にヨウ素剤を投与(〜3⽉14⽇)。


平成23年3⽉14⽇

 11時01分 福島第⼀原発3号機の原⼦炉建屋が爆発。


平成23年3⽉15⽇

 6時14分頃 福島第⼀原発4号機の原⼦炉建屋が爆発。


平成23年3⽉19⽇

 約1,200⼈の町⺠が、川俣町から「さいたまスーパーアリーナ」へ避難。


 この経過を見ただけでも、現地の慌ただしさが目に浮かびますが、当時双葉町に住まわれていた方々は、十分な準備をすることもできずに、家を離れざるを得なかったということが、現在の双葉町の状況を見てよくわかりました。


 実際に車で双葉町、大熊町を見て回ると、震災当時の状態が、まだそのままの残っている場所が多くあり、想像と異なる風景に言葉が出ませんでした。窓ガラスが割れた家、瓦が落ちてしまっている家、看板が傾いているお店。家の中は、子供のおもちゃや、洋服が放置されたままの状況。慌ただしく家を離れざるを得なかったのでしょう。

廃屋
震災当時のままの建物

 また、地元の消防団の建屋では、停電で消防車用の車庫のシャッターが開かず、そのシャッターを車で押して、無理やりこじ開けて被災者の救助に向かった状況などが、ひしゃげた消防団のシャッターの状況から目に浮かびました。このように現在も当時の状況が手付かずで残っていることに、衝撃を受けました。


消防団
消防団のシャッターと地震発生時間で止まった時計

 同じ日本に住み、異なる場所でしたが同じように東日本大震災を体験し、そして原子力災害の状況にも注目していたはずなのに、当時の様子も、今の状態も全く知らなかったことに、自分のことながら驚きました・・・・・・。


双葉駅
双葉駅の改札横には放射能線量計が表示されています

 伝承館では、震災前の状況、震災、そして避難、さらに復興に向けた歩みが「記され」ており、写真や地図が展示され、また住民の方々のインタビューなどがモニターで流されていました。また、展示コーナーの入り口の大きなホールにあるモニターに、映像が流されるのですが、ナレーターは福島県出身の故西田敏行さんでした。福島の方言を交えながらの語り部は、心に刺さりました。改めて、ご冥福をお祈りいたします。


 人の記憶は曖昧ですし、人々の関心は、今という日常へ移っていく中で、過去の歴史、教訓は風化していってしまうわけですが、伝承館のように、歴史をしっかり「記し」、また今回のイベントのように、「記す」こと自体を議論する場って、本当に大切なことなんだな~と感じました。


 歴史を大切にし、後世に伝えるという思いは、ブラジルへ移民した日本人、そしてその子孫の中にも残っていますし、日本でも、その歴史、事実を「記す」取り組みが行われています。


 ブラジルへの移民の歴史は、JICA横浜 海外移住資料館で知ることができます。私も当資料館内のポルトガル語ナレーション(録音音声)を担当することで、日系移民の歴史を「記す」お手伝いをさせていただいております。私が双葉町の様子をよく知らなかったのと同じように、戦前、戦後に国の政策によって多くの日本人が海外へ移住していった事実を知る日本人は、決して多くないように感じます。私も、微力ではありますが、移民の歴史を後世に伝えるとともに、日本とブラジルの懸け橋になれるように、「記し」続けたいと思います。


 ブラジルの日系人コミュニティも、移民初期の困難を乗り越え、今日では多くの分野で活躍しています。その背景には、家族や地域の支え合いがありました。同じように、双葉町や大熊町でも、地域のつながりと支え合い、工業団地の誘致、スタートアップ企業の進出、様々な大学の活動などの新たな動き、復興の力づよい歩みも感じることができました。一歩一歩かもしれませんが、復興の着実な進展がなされることを切に願っております。

 

 今回の訪問を通じて、福島第一原子力発電所の状況や復興の現実に触れ、新たな気付きを得ることができました。この経験を、私のブログを通じて共有し、少しでも多くの方に知ってもらいたいと思います。福島の方々が紡ぐ未来の物語を、私たちも共に支えていきましょう。


最後にお知らせです!


 H&Aポルトガル語教室では、ブラジルの日常生活などもテーマにしながら、楽しくレッスンを行っております。また、日本とブラジルの文化や習慣の違い、コニュニケーションの仕方の違いなどに注意しながら、確実なレベルアップを目指す効率的なレッスンを進めています。ご興味のある方は是非下👇の動画(26秒)をご覧の上、無料体験レッスンをお申し込み下さい。


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